18 Jul. 2012
同語反復の罠/星野太
2012年6月にアンドーギャラリーで発表された笹井青依の6点のタブローは、いずれも例外なく「木」をモティーフとしている。これは、あらためてそう言葉にすることすら憚られる、あまりにも自明な事柄であるように思われる。しかし、ひとまずはその自明性から始めよう。これら6枚のタブローはそれぞれ2本から4本の木々をモティーフとしており、そのすべてが緊密なシンメトリー構造を保持している。ただし、その画面の構成はけっして画一的なものではなく、そこに見られる色彩や構図にはいずれも一定のばらつきがある。したがって、この6枚のタブローに接近するためにまず考えるべきなのは、これらの作品をつらぬく連続性と偏差の所在である。
それぞれ、《Laurales》《Quercus》《Deodar》《Myrica》《Morus》《Quercus 2》と題された150号の作品すべてに当てはまる大きな共通点としては、すでに言及した絵画内のシンメトリー構造が真っ先に挙げられるだろう。カンヴァス上に描かれる木々の枝幹や葉群は、完全な対称とは言えないまでも、例外なく左右対称になるように配置されている。描かれている木々の本数が偶数の場合は画面の中心が対称軸となり、奇数の場合は中央に描かれた木が実質的にその対称軸として機能する。そして、この均整のとれた構図のもとに、微妙に異なる灰色の後景、緑色の葉群、そしてベージュに近い色の幹や枝が描かれている。別の言い方をすれば、薄い雲のような濃淡を帯びた灰色の色面の上に描かれている具体的な事物は、それぞれに異なる個性を備えた樹木だけなのである。
私たちはこれらをすべて「木」だと認識することができる。しかしよく考えてみると、これはかなり奇妙なことである。なぜなら、私たちの多くは実際にこのような形をした木を見たことはないはずだからだ。私たちが知る「ふつうの」木は、その中心となる太い幹と、そこから伸びた枝を埋め尽くす巨大な葉群によって特徴づけられる。だから笹井が描くような、細い枝幹に葉群がばらばらについたような「何か」は、実際の木とは大きくかけ離れたものであるはずなのだ。しかし笹井のタブローを見るとき、私たちは瞬時にそれを「木だ」と理解することができる。そのような同定が可能になっている理由は、もちろんそのタイトルに起因しているのでもない。Laurales、Quercus、Deodar、Myrica、Morusというアルファベットの文字列が、それぞれクスノキ、カシ、ヒマラヤスギ、ヤマモモ、クワであることを瞬時に理解できる人間はおそらく稀である。だとすると、目の前の「何か」が紛れもなく何らかの木であることを私たちに理解させるのは、そこに描かれたイメージそのものにほかならないということになる。
実際、これらのモティーフが木であることはあまりにも自明である、と冒頭では述べたものの、そのような認知が可能になるメカニズムはそれほど単純ではない。先にも述べたように、笹井が描く木々の枝幹はありえないくらいに細く、個々の葉群は実際の木々とはかけ離れた奇妙な個体性をまとっている。見方によっては、《Quercus》や《Quercus 2》の葉群は人間の頭部のように見えても不思議ではないし、《Morus》に至ってはそれが木であるかどうかという判断もやや怪しいものになってくる。
だからこそ、私たちは笹井のタブローのモティーフが「木」であるというその自明性にこそ固執しなければならない。見る者にそれを「木」として同定させる笹井のタブローは、その自明性ゆえに、その作品を何らかの仕方で読み解こうとする者の目を眩ませずにはおかないからである。いわば、この6枚のタブローは、最初に「木=木」という同語反復を設定する。背景の上にいくつかの樹木だけが描かれたこの画布を目にするとき、それを見る者の脳裏には、〈木という概念〉と〈目の前に描かれた木のイメージ〉の幸福な一致が去来する。しかもそれは、周到に計算された色面と構図の安定感によって、さらに確固たるものになるだろう。しかし、言うまでもなくそれは罠である。なぜなら、そのモティーフの自明性から写実的な絵画であるかのような第一印象を与えるこれらのタブローには、その実さまざまな操作が仕掛けられているからだ。
その顕著な例を、画面の中の「光源」と「陰影」に見ることができる。各作品の枝幹と葉群にはいずれも控えめな陰影が付けられており、それがこれらのタブローの写実性を見る者により強く印象づけている。しかしそれは、やはりどこか妙なのだ。屋外のモティーフならば、それは太陽という単一の光源のもとに置かれている「はずだ」──そのような大方の推測に反して、《Deodar》や《Laurales》の葉群に見られるハイライトは、そのフレームの外にある複数の光源の存在を示唆している。また、枝幹のいたるところに付けられた陰影についても、同じくそこから単一の光源の位置をつきとめることは難しい。各々の幹や枝に付けられた陰影は、その位置関係という観点から言えば、明らかに整合性を欠いている。こうした絵画的な操作を、笹井が殊更に強調することはない。むしろその控えめな所作によってこそ、画面内に仕掛けられた罠は、見る者の視線の平衡をより効果的に絡めとっていくのだ。
より目につきやすい部分について指摘するならば、画面内に置かれた木々の位置関係の曖昧さを指摘することもできるだろう。とくに、並び合う木々から伸びた枝が複雑に絡み合う《Quercus》や《Quercus 2》を見ると一目瞭然であるように、これらの枝は、現実的にはありえない位置を占めている。通常であれば、モティーフの陰影からその奥行きを推測することによって、それぞれの枝が伸びている方向は容易に把握可能であると思われるだろう。しかしながら、笹井の作品の場合、陰影にしたがって見積もられた枝の位置関係と、それらの枝の重なり方がどう考えても一致しないのである。こうした空間のねじれが顕著なのは、すでにここまで何度か言及した《Quercus》や《Quercus 2》である。しかしそれ以外の《Deodar》や《Laurales》においても、似たような形をしたそれぞれの木が横並びになっているのか、それとも手前から見て異なる距離に位置しているのかはまったく明らかではない。つまり、枝幹や葉群といったそれぞれの要素が類型化されているがゆえに意識しにくいのだが、《Deodar》や《Laurales》に描かれた木がみなひとしなみに横並びになっているということ自体、実はまったく保証されていないのだ。むしろ、先に見た光源や陰影といった部分に目を向けた場合、そこには一定の遠近が存在していると考えた方がむしろ自然なのである。
以上のようなことが、笹井のタブローを見る者の意識にのぼることはおそらく稀だろう。そもそも絵画が写実的でなければならない理由などどこにもないのだから、陰影や遠近感の意図的な操作は、それを描く者にとっても、見る者にとっても、それ自体としてはさほど重要な事柄ではない。だから、ここでむしろ問題にしたいのは、そうした絵画的な操作が行われているにもかかわらず、それが主題およびモティーフの自明性によって巧みに隠されているという事実の方である。それはどういうことかと言えば、各々のタブローに見られる安定した木々の表象が、私たちの詮索を執拗に突き返し、疑り深い視線がそこに踏み入ることを頑なに押しとどめるということだ。《Myrica》のように、重なる木々の葉群の位置関係が不明瞭な絵画を前にして、私たちはそこから黙って撤退せざるをえない。そこでは、見る者の好奇心を喚起するいかにも絵画的な作為は周到に隠され、反対にそのような謎は存在しないのだと、タブローはその視線を涼しく躱す。「木=木」という一見単純な同語反復の背後に隠されているのは、たんなる写実とはかけ離れた、絵画的と呼ぶほかない空間である。そのような空間を成り立たせているのは、そこにあるはずの作為そのものを隠すという、画家のより周到な技巧にほかならないのである。