5 Jun. 2019
半分の空間/星野太
平川祐樹の《Lost Films》は、文字通り「失われた映画」をめぐる作品である。だが、失われた映画、というそのミステリアスな響きとは裏腹に、この作品が突きつけるのはもっと素朴で、唯物論的な事実だ。この作家の言によれば、1930年代までに世界中で制作・公開された映画のうち、現存するのはそのわずか20パーセントにすぎないという。さらに、過去さまざまな災害に見舞われてきた日本の映画にいたっては、その割合は5パーセントを下回る。たしかに言われてみれば、山中貞雄や溝口健二といった第一級の巨匠の作品でさえ、その多くは戦災により焼失し、いま私たちが目にできるのはあくまでもその一部にすぎない。したがって、「失われた映画」というのはとりたてて珍しいものでも何でもなく、戦前の作品に限って言えば、むしろそちらの方が大勢を占めているということだ。
しかしその事実にもかかわらず、「失われた映画」というナラティヴは、人々のあいだに何か特別な情動を喚起するものであるらしい。昨今でも、失われたと思っていた映画が世界のどこそこで発見された、それがどこそこのフィルムセンターで修復された、といったニュースをしばしば耳にする。複製技術時代の芸術ならではというべきか、唯一無二のオリジナルというものが存在しない映画の場合、上映用プリントが世界のどこかに1本でも残っていれば、それを現代の技術(デジタル・リマスター)によって復元することは十分に可能である。したがっていまこの世界には、(Ⅰ)現存する映画、(Ⅱ)失われたと思われているが、ひょっとしたらどこかにその生き残りが存在するかもしれない映画、そして(Ⅲ)最後の1本にいたるまで、その痕跡がこの世から完全に抹消された映画、の三種類が存在することになる。先述のケースは、(Ⅲ)と思われていたものが実は(Ⅱ)であったことを伝えるものだろう。そうした遺失物の発見——いわゆるLost & Found——が、それに関わった映画研究者やアーキヴィストの血の滲むような努力とも相俟って、人々の情動に訴えかけるということも十分に理解できる。「失われた映画」をめぐるナラティヴを巷で活気づけているのは——その喪失と発見にともなうノスタルジーやロマンティシズムはもちろんのこと——そうした人情的なドラマ以外のなにものでもないだろう。
他方、「失われた映画」に対する平川祐樹のアプローチは、それとはまったく異なるものだ。たとえ映画そのものが現存しておらずとも、そこにはひとつだけ、確実に残っているものがある。それが、公開時に雑誌やポスターに記載された「タイトル」だ。マスターポジや限られた上映用プリントしかない映画本体とは異なり、封切り時に広く拡散したタイトルなどの興行データは、そう安々と消え去ってしまうものではない。平川の《Lost Films》は、失われた映画に対するノスタルジーやロマンティシズムとは基本的に無縁なかたちで、このタイトルを作品の「フッテージ」として用いた作品である。その10分弱の映像作品には、失われた映画の「タイトル」と「制作年」のみがつつましく記され、空間にはそのタイトルを読み上げる誰かの声が淡々と響きわたる。数分間にわたり続く黒一色の画面は、そこで読み上げられる映画そのものの不在をただしく証言しているかのようだ【註1】。
この《Lost Films》の三作目にあたる《映画になるまで 君よ高らかに歌へ》(2018)は、過去ドイツ語、英語を用いて同様の作品を制作してきた平川が、はじめて日本映画を対象にした作品である。通しで鑑賞すればわかるとおり、この印象的なタイトルは、その最後に現れる2本の映画(『映画になるまで』『君よ高らかに歌へ』)をつなぎ合わせたものだ【註2】。
まずは雰囲気を掴むために、冒頭部分の字幕を少々引用してみたい——便宜的に各字幕をスラッシュで区切ると、「霧込むる夜/闇を行く/難破船/未知の国へ/凋落の彼方へ/白日の下に/光を求めて/海の極みまで/曳かれ行く日/……」といった文字列が並ぶ。先述したように、これらは各々が実在した映画のタイトルに由来しており、厳密にはその下に制作年が添えられている(その多くは1920〜30年代のものだ)。画面が黒のバックグラウンドから切り替わることは一度としてなく、最終的には、9分間で計100本の映画のタイトルが読み上げられる。
かようにシンプルな構造をもつ作品だが、考えるべきことは多い。まず、作家はこれらをいかなる規則によって並べるにいたったのか。その大前提となるのは、先述したように、これらがいずれもこの世から失われた映画のタイトルだということだ。つぎに中前提として——少なくともこれまでの——《Lost Films》はすべて、同じ言語圏に属する映画のみを対象としている【註3】。具体的にいえば、過去2作ではそれぞれドイツ語、英語のタイトルをもつ作品だけが、今作の場合は日本語のオリジナル・タイトルをもつ映画だけが選び出されている。そして最後の小前提として、これら100のタイトルは、連続的に提示されたときに一定の意味をなす文字列になるように、意図的に選び出されている。
いま、「連続的に提示されたときに一定の意味をなす文字列になるように」と言ったが、その連続性を保証するものが何であるかはかならずしも自明ではない。同作に登場するタイトル一覧が掲載されたリーフレットを見て、多くの人が第一に連想するのは「詩」にほかなるまい。そのことは、映画のタイトルをいくつかのブロックに区切ったレイアウトによっても、おのずから示唆されている。はじめの「霧込むる夜/闇を行く/難破船/未知の国へ/凋落の彼方へ」というブロック(連)であれば、私たちはそれを〈霧込める夜の闇の中、難破船が未知の国へ、あるいは凋落の彼方へと向かう〉といった内容を伝える詩的なセンテンスとして理解するだろう。標準的な統辞法からの逸脱は、私たちが詩と呼ぶもののもっとも大きな特徴をなしている(ゆえに詩歌の翻訳には多大な困難がともなう)。その事実を知る私たちは、さしたる違和感もなく、曖昧につなぎ合わされたこの種の文字列から、ひとつの合理的な意味を読み取ろうとする。
しかし、そうであれば、本作は「詩」の形式で発表されてもよかったはずだ。すでに述べたように、この《Lost Films》は、失われた映画のタイトルをフッテージとして用いた作品である。ふつうフッテージといえば、それはある映画のフィルムの一部分をさすのが常である。しかし本作の場合、それはどうあっても叶わない。なぜならここで引用される映画は(おそらく)ひとつとして現存しないからだ。そして、これも明らかなことだが、作品のタイトルとは、つきつめればただの「言葉」にほかならない。そうであるなら、この種の既存の言葉をフッテージとする芸術作品もまた、文学的な形式を取るのがむしろ自然であるだろう。
しかし、平川はこれをあくまでも映像作品として制作することを選択した。そして、映像(映画)にはそれが可能なのだ。なぜなら、私たちが日常的に観ている映画を考えてみても、そこには言葉が平然と音声/文字として刻まれているからだ——すなわち、ヴォイス・オーヴァーと字幕という、いずれも所在の不確かな言葉として。
もしもこの作品が詩として実現されていたら、そこでは何が達成されずに終わっただろうか。おそらくその場合、失われた映画のタイトルは、たんなる言葉にとどまっていたに違いない。奇妙なことを言っているだろうか? タイトルとは言葉にほかならないのだから、ある意味ではそうだろう。しかし今しがた見たように、映画には、ヴォイス・オーヴァーと字幕という、このメディアにおいてのみ可能な言葉の存在様態があることも事実だ。要するに《Lost Films》は、何らかの事情によりタイトル(=言葉)だけになってしまった映画を、ふたたび映画に返す試みなのである。
タイトルだけをこの世に残した映画とは、要するに言葉へと還元され、もはや映画でなくなった映画のことであろう。平川は、それをふたたび映画として復活させることを試みる。この作家の推測によれば、『映画になるまで』という印象的なタイトルをもつ作品は、映画産業の現場に取材したドキュメンタリーである可能性が高いという。おそらくそうなのだろう。そして、この映画を「発見」したとき、本作品の骨子はほぼ固まったと平川はいう。それは本作のタイトルが、前作《The Better Way Back to the Soil》のそれ、すなわち〈土に還る(ための)より良き方法〉と、言葉として美しい対照をなしていることとも無縁ではあるまい。「映画になるまで」というのは、明らかに「土に還る」こととは対極にある、映画への「生成」ないし「復活」へのベクトルを示唆するものだからである。
映画によって、映画を復活させること——要するにこの作品のタイトルそのものが、《Lost Films》の試みのきわめて鮮やかな要約なのである。また、それによって、この作品は映画の特性そのものまで浮き彫りにしようとしているかのようだ。《The Better Way Back to the Soil》にしても《映画になるまで 君よ高らかに歌へ》にしても、そこに含まれる2つのタイトルのあいだには、それらをつなぐための記号、たとえばコンマなどがどこにも見当たらない。これは、結果として鑑賞者にいくぶん奇妙な印象を残すだろう。《映画になるまで 君よ高らかに歌へ》——これら2つのタイトルは、コンマでもピリオドでもなく、たったひとつの半角スペースによって隣りあっているだけなのだ。にもかかわらず、私たちはそれらを連続的なものとして認識するだろう。この些末な、本来の文字の半分にしか満たない空間は、いかなるショットであれ、それをつなごうと思えばつなげてしまえるという、映画におけるモンタージュの機能に対応している。映画におけるそれぞれのショットは、コンマやピリオドのような統辞法を越えて、ただ隣接関係にあるにすぎない【註4】。この「半角スペース」の選択は、そのことに対する作家の自覚を明々と証し立てるものである。
なぜ「それ」と「これ」が隣りあうのか。それを説明してくれる合理的な根拠など、最終的には存在しないのだろう。この根拠なき「半分の空間」のなかにこそ、おそらく映画を映画たらしめる、その原理のすべてがある。さらに言えば、これら失われた映画たちと、いまなお現存する映画たちを分かつ分割線も、きっとそうした酷薄なものではなかったか。この作品がもたらすのは、来歴や運命を異にするものたちが平然と並びあうという、そのささやかな奇跡に対する適切な認識なのである。
註1:
平川の作品に見られる第一の特徴は、不在や消失をめぐる(ともすると)情緒的なテーマを扱いながら、それをきわめて唯物論的に表象する冷静な手つきである。この点については次を参照のこと。拝戸雅彦「光の鼓動」『平川祐樹』展覧会カタログ、アンドーギャラリー、2018年、4-9頁。
註2:
平川の作品に見られる第二の特徴は、映像とオブジェを中心とする、そのミニマルな外観であるだろう。しかし《Lost Films》がほかの諸作品と異なるのは、後述するように「言葉」への繊細な意識がそこに見て取れることである。これに対して、自然の物体を効果的に用いたその他の作品については、次に詳しい。飯田志保子「永い眠りのかたち・悠久の生が現れるとき」『平川祐樹展「眠りにつくまで」』展覧会カタログ、美濃加茂市民ミュージアム、2014年、28-31頁。
註3:
同シリーズは2017年に開始された。第1作はドイツ語による《Vom Fels zum Meer Von Ozean zu Ozean》(2017)、第2作は英語による《The Better Way Back to the Soil》(2017)である。なお、本論の執筆時点で、すでにイタリア語による第4作《Due cuori Sperduti nel buio Due occhi per non vedere》(2018)が発表されている。
註4:
沢山遼が適切にも指摘するように、以上に述べたようなこの作品の構造は、20世紀前半の映画理論、とりわけユーリ・トゥイニャーノフや中井正一らのモンタージュ理論を大いに連想させるものである。ただし皮肉なことながら、同レビューに掲げられた本展のタイトルには、本稿でその重要性を指摘した当の「半角スペース」が欠けていることを付言しておく。沢山遼「映画と詩と声 平川祐樹「映画になるまで君よ高らかに歌へ」展」『美術手帖』2018年7月3日:https://bijutsutecho.com/magazine/review/17195(2019年3月1日最終閲覧)